たしかなこと
今日私が、ウェンディーズでカフェモカをのんでいるのはふつうのことだ
こんな美味しい飲み物他にないだろ〜って小さく感動するのもふつうのことだ
これを飲み終えたら家に帰れることも、
そこに家族が暮らしていることも
誰かが今日うまれて、また、死んでゆくのも、生き物の大きないとなみのなかで繰り返されるふつうのことだ
そのひとつが悲しくて堪らなくて、涙を我慢しないのもふつうのことだ
生活の中で意識せず、いや、本当は意図的に、目に飛び込んでくるいろんなものから故人を思い出してしまうのもふつう
もっと悲しみの中に潜り込んでしまいたいなあと思うことも
自分が選び取った、そして応援されている、やるべきことが刻々と押し寄せてくることも
あした、身の回りの誰がいかにして、とつぜん、いなくなるかわからない
きっと生きていれば、これからもいろいろなことの後悔は生まれてしまう
でももし、先回りできたら、未来を予知できたら、怠惰なわたしはもっともっと深くて辛い後悔を増やすことになるだけだと思う
たくさんとつぜんのことに出くわす中で、
ああ、とつぜんだったなあと
悲しいなあ、申し訳なかったなあと
ちゃんと思える人ではありたいとおもう
葬儀というのは、誰がなんと言おうと、遺された側のためのシロモノだと思う。
霊的なものを日頃、わたしは望んでいるし楽しんでいるほうだけど、盲信はしていないし、どちらかというと死後の人間は 無 なのだと思っている
遺されたものの納得のため、感謝のため、償いのため、やるだけだとおもっている
こんなことで今更集まって、、、、
もう遅いよ?????
とおもってしまう
生きていればこそ、伝えられる気持ちが沢山あることを私は一生忘れないと思う
幸多き人生においてどうしても必要だった、簡単で難解なテーマを遺していった、その日のその人に私は畏怖をおぼえる 武士のような人だったのかもしれない こうなってみて、引き伸ばされた写真をみる わたしたちの前では優しい笑顔だったと知る ごめんなさい ありがとう もう苦しんでいませんように
今こういう気持ち
もうみるからに、
分析されたらやばそうな 笑