花に嵐のたとえもあるさ

これはもともと漢詩なんだってね

今日知りました

 

井伏鱒二が訳したってのも、今日知りました

 

さよならだけが人生だ

 

これはなんか、寺山修司が引用してたかなぁという記憶があって

てっきり寺山さんの言葉なのかなと思ってたけど違った (いや厳密には一度咀嚼されてるからもう寺山さんの言葉なのかもしれない…)

 

「勧酒」

勧君金屈巵 満酌不須辞

花発多風雨 人生足別離

 

君に勧む 金屈卮  満酌 辞するを須いず

花発けば 風雨多し 人生 別離足る

 

 

 

こういう原文らしい

それを井伏さんが、

 

 

 

「この杯を受けてくれ どうか並々、注がしておくれ

花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ」

 

 

こういう感じに訳したらしい

かっこいい訳…しんみり…行間とはこういうことだって漢気… いまどきの、全部説明してくれちゃう一部のJ-POPは見習ってほしい 心から 

 

(脱線するけど米津玄師の「花に嵐」もここから来てるんですね  すごいね 彼は何においても造詣が深いね すごい…歳、近いはずなのに、色んなことを先回りされててため息が出る 花に嵐すごくいい歌、さわやかだけど悲しくて情熱があっていい歌🤭)

 

 

さよならだけが人生だ

 

それを、そんなことないもん…って思ったのが、寺山さんだったんだね そういう経緯があったんだね

 

 

 『幸福が遠すぎたら』 

さよならだけが 人生ならば
また来る春は 何だろう
はるかなはるかな 地の果てに
咲いている 野の百合 何だろう

 

さよならだけが 人生ならば
めぐり会う日は 何だろう
やさしいやさしい 夕焼と
ふたりの愛は 何だろう

 

さよならだけが 人生ならば
建てた我が家 なんだろう
さみしいさみしい 平原に
ともす灯りは 何だろう

 

さよならだけが 人生ならば
人生なんか いりません

 

(寺山修司)

 

 

執着、生きることや、温もりにしがみつくこと、

こんなふうに、

恥ずかしくないもんって言ってもらえると嬉しいね

わたしもわたしも、平野に家建ててあかり灯す🙋‍♀️灯すー

 

たしかに人間は色んなものと別れるけどさ

先生とか

家族とか

ちょっと未熟だった自分とか

憧れとか

この俗世とか

 

 

事故のニュースやら訃報ばっかりで

芽吹きの季節なのにしょんぼりしてしまいます

しょんぼりといえば、

週末、おじいちゃんの一周忌ありました

事情も察してるはずのお年寄り住職の、優しい眼差しでうっかり泣きそうになりましたが

構えてたほど辛くなりませんでした

なんだ!わたしめっちゃ強くなってるじゃん😦

という自信、気高い気持ちがすこしありました

 

でもなんで辛くなかったかといえば、

ここにくるまでで数え切れないくらい泣いたり沈んだり後悔したり懺悔したりなんでなんでとか思ったり 

毎日毎日フタもせずに(できずに)繰り返したからでした

 

記念日や儀式で、より、

そういう日常の中でちゃんと、どうにかして弔いたいとじたばたしてきたからだと思いました 毎日毎日 ほんとに おじいちゃんの指定席は視界に入れられないし 形見なんか触ったら最後 なかなか立ち直れないし 目が腫れて朝起きられないし 学校行っても無力感でいっぱいだったし  涙が枯れるってこういうことかとも思いました

 

故人に気持ちが伝わるとか

故人の救いになるとか

そんな生ぬるい御都合主義なことは絶対に言いたくありませんが

 

去年の今頃のわたしよりは 色んな感情や自分や家族の姿を見届けたぶんは すこしどっしりとしてるんだなと思った出来事でした

 

 

さよならは万人が避けられない人生のイベントですが、

それだけが、人生と言い切るのは早計なような気も しないでも ないような 気がする ような気がする わたしは、「歩き疲れたら帰っておいで」って歌の一節に繰り返しはげまされたから、そうやって大切な人にも言える人でいたい

(そのうたはポルノグラフィティ先生のライラです💃🕺ポルノの歌は裏切らない🌹決して🌛)